昭和41年09月17日 夜の御理解
おかげが有難いから信心をする。信心が有難いからお参りをする。ここんところで信心の、ほんとの信心が伸びるか伸びないか、成長するかしないかと言うことが決まるんです。やはり様々な難儀から御神縁を頂いたと言う人がほとんどですから、おかげを頂くもんですから。ただおかげが有難い、もうほんとに御利益あらたかな事だと言う様なことが。信心を、その人の一生をそういう信心で終わるとするならば。
それは信心を頂いた、本当の値打ちに、ふれんなりに終えたと、いうことになる。そういうところから、ここには信心の稽古に通うてくるところぞと、おかげは、わが家で受けるんぞと。ここに信心のけいこに、通うて来るところぞと、言うことをもう繰り返し繰り返し説かれ、それもまた言葉を変えては、そう頂くのでございますけれども、なかなか心の目が開けない。
信心の目が開けないと、やはりおかげが有難いから、信心をするということで終わっていく人が、もうどのくらいあるやら分からん。ここにほんとに一つ、信心の有難さが分かって、お参りをさせて頂けるという信心に、一つならなければならんと思うんですね。それには、あのどういうことが、原因しておるだろうかと。たとえて言うなら、ま今日は女性の方たちの、お茶のけいこがあってます。
ですからそのお茶の稽古をさせてもらうに、致しましてもですええなあお茶はと。第一立居振るまいが素晴らしい心が落ち着く。お茶を美味しいと言うだけではなくて、あの手前が素晴らしい雰囲気がいい。私もどうでも信心のお茶の稽古をさしてもらおう、と言う様なことがです、私はお茶の稽古のま目的だとこう思うのですよ。ですから初めの間は中々ぎこちないんですけれども、一通りその手前なら手前を覚えさせてもらうとです、いつの間にかそのお茶の雰囲気と言った様なものが、身に付いてくる。
行儀作法も覚えてくる。ほんとその落ち着いて、おられると思うたら、お茶の稽古を長年なさっておられるげなからと言うようにです、お茶の雰囲気と言うものが身に付いてくる。ね、だからそもそもお茶のけいこをする時にです、お茶はいいなあとあの雰囲気がいい。作法を覚えていく事が、素晴らしいという事からお茶の稽古になるので御座いますから、稽古をするからそういうふうに身に付いて来るんですね。
信心もやっぱそこんところを、一つ分からなければいけない。そこんところをまた説きもするのですけれども、矢張り、おかげが有難いで、終わってしまうと言う様なことでは、本当につまらん話である。私いまあのお道の新聞を、ちょっと読まして頂いておりました。ほんなちょこっとですけれど、そこに書いてあった。ある先生教会の先生が、そのなんか共励会のようなところなんでしょう。お話にお出でられた。信心のない人達の前でお話なさるんです。
そこで色々お話をされた後に、そこに一粒のモミが落ちておった。ですからそのモミをこうみんなに見せながら、このモミは皆さん誰が作ったと思いますかて問われた。みんなが黙ってる。そばで一人の子供がその話聞きよった。僕は知ってるだろうこのモミ誰が作ったか知ってるかととこう言う。したら僕は知ってる。だれが作ったのか。お百姓さんが作ったとこう言う。成程お百姓さんが作ったんだね。
けども百姓さんだけではないよちゅう。ね、牛も手伝ったよそうだな、お百姓さんだけじゃないな、牛も手伝ったな。それだけじゃないよ、坊や良く考えてごらん、ていうてその坊やと先生の一問一答のところが書いてある。そしてその子供が段々解っていくこと。ね、分からなかったら、先生がヒントを与えておられるですね。そんなら坊やここのこのモミをよ、畳の上に置いたって、芽が生えるかね。稲になるかね。
こう言われる。はあそうだ、ね、矢張りこれは大地におかなければ、泥のおかげだ。そうだろうしたら次々にその子供が分かって行くんですね。はあそうだ、ね、お天道様の御陽光がいるんだ。熱がいるんだ。ね、それにはお湿り雨もいるんだ。それにお百姓さんが、草を取ったり肥料を施したりするところの、または牛やら馬やらが使われる、と言うことになってくる。
そう言う様なことなんだよ。教組の神様て言う方は、ね、人間だけではどうにもでけないもの、ね、そういう例えばお水とか空気とか、ね、または大地なら大地にそういう種を蒔いたら、それが花ならば花を咲かせる、それが穀物であるならば、穀物の生長していく、それをそうするところの働きと言うものが、この天地の中にはあるのだ。それを教祖の神様は天地の親神様と仰っておるんだというふうに説いておられる。
ところをちょいと読ましてもらった。ね、信心をさして頂くでもそうです。ね、それを聞いておったその子供の母親がね、ね、病気をしておる。その話を聞いてです、今まで天地の大恩も知らずに過ごして来た事を、ほんとに相すまんと思うて涙を、ほろほろ流しながら聞いて、教会にしばらく置いて頂きたいというて、教会におって難病が助かったというようなことが書いてある。
私はお道の信心をさして頂くものがですね、そう言う様なことを稽古すると言うことは、稽古するのだと言うことを、ね、今まではお水、ひとすくいのお水を頂くんでも、もう当たり前のように思うておった中に、お水の有難さが分かり、米一粒の有難さが分かり、いゃ米一粒に、どれくらいの天地の親神様の働きが、こもっているか分からんと言うようなことが分からして頂いて、その食物を例えば頂いておる水をいままでとは違った有難さをもって頂くようになった。
一粒の米でも、一粒のモミでもそれを大事に取り扱うようになった。そういう稽古をしていくうちにです、なるほど神様のおかげなしにはでけんのだな、人間障子一重がままならぬ人の身であるなら、神様のおかげを頂かなければ、出来ることではないんだなぁと言うことを、次の信心のけいこによって段々分かっていく。身に付いていく。そこに有難いと言う心が生まれてくるんである。
その有難いと言う心に、あれも成就してきた、これもいわば医者の見放しておった、例えばそのお母さんも助かれたように、助かっても行くのだと。こう言う基本的なところをです、私どもが分からしてもらいそれをけいこさせてもらう。私どもが拝まして頂いておる天地の親神様と言う神様はです、そういう働きをなしてくださる神様なのだと言うことを解らして貰い、その神様がお恵み下さるものを、大切に取り扱わせて頂くと言う稽古をさせて頂くと言うこと。
そこに信心の、言うならけいこの実績と言うか、が積まれていく。信心のその稽古が、だんだん身に付いてくる。そこから有難いものが頂けてくるようになり、はじめの間は、ただおかげが有難いと思うてお参りしよったけれど、信心が段々解っていくということがです、そういう基本的なことを教えてもらい、その基本的なそのことをです、成就、今朝の御理解を頂くと、天地の道理ということを頂いとりますが、天地の道理を聞かせてもらい、道理に合った生活をさせて頂く稽古をさせてもらうのだ。
そういう稽古をさせて頂く所にです、今までとは違った、味わったこともない有難いというものが頂ける。稽古する事が愈々楽しゅうなってくるのであり、有難うなって来るのであり、その有難いと言う心に愈々おかげが伴うてくるのである、と言うようにです、信心の方が進展する、根本的な所をどうも私どもは掴んでいないようにも思う。信心の有難さ、信心が、おかげが有難い、信心が有難いと言いよるけれども、二つの私は表現があると思う。二つのタイプがあると思う。
さあ、お参りしなさい、おかげ頂きますよ、お参りすりゃ、すぐにおかげ頂きますよ、と言ういわばタイプの信心、これはおかげが有難いと言う信心。ね、そしてそこからです、お道の信心の根本的なところを、教祖の神様が一番大事にされたそこのところをです、そこのところを天地の親神様と仰ったと言うようなところを分からしてもらい、そのお恵みのものを、大事にさせて頂くと言うような、稽古を日々繰り返すところに、稽古の楽しさ、有難さと言うものが身に付いてきて、いよいよ信心の稽古が出来ていくということになるのじゃないでしょうか。
どうぞここに、信心の稽古に来る所と言うことを、繰り返し頂いてもです、稽古しなかったら、やはりおかげが有難いで終わってしまう。信心は有難いということを一つ分からして頂くために、そこんところの稽古がですね。やはり御地内をみだりに汚すなよと仰ったら、本気でその御地内をみだりに汚さんと言う、修行などがです、続けられるような精進が必要である。それは例えばお茶の稽古をするようなもの。
お茶の第一雰囲気がいい、行儀作法を覚えられる、あの一つ間違ごうても、次に進まれない、あの手前の、お茶の手前なんかの、手順と言ったようなものを覚えさせて頂くところに、いわば落ち着かない心も、落ち着いて来る。あわてんぼうも、いわば落ち着いた人になれるというような、お茶にはお茶のそうした、精神と言うものがある。その精神を体得していくことが出来れる。それが良い、それが素晴らしいと、例えばおもうて信心の稽古、お茶の稽古をする。
それがただ、その嫁入り道具にただ一通り覚えときゃよか、といったようなお茶の稽古だったらです、それはもうおかげが有難いと言う信心と、同じようなことじゃなかろうか。もうその精神を分からしてもらう。その精神が素晴らしいと、それを稽古する所に、私はお茶の精神、本当によいお茶の上達があるように、信心の上達もやはりそこん所をです、間違えんような、ように焦点をはっきり間違いのない所に、おいて信心の稽古をさして頂いたら、信心が楽しゅうなってくる。いよいよ私は有難うなってくると思うですね。
どうぞ。